布袋戲の変遷
初期の形体~後場の音楽~
『布袋戲の由来』で述べたように台湾布袋戲は、200年以上前の大陸の泉州、漳州、潮州などに起源を発する。台湾への移民達の離合聚散、台湾における政治や社会形態に影響され、長い間に独自の文化として発展し今日へ至る。
台湾への伝播当初、布袋戲は移民達の出自により様々な様相を見せていた。泉州からの移民は台湾北部中心で「南管布袋戲」、漳州移民は「白字布袋戲(南管系)」、潮州移民は台湾中南部で「潮調布袋戲」というように、それぞれが自分達の布袋戲を持ち込んだ。これらの流派の主な違いは用いる楽曲の形式にある。
「南管音楽」は台湾で最も古い古典音楽の一つで中国の福建省泉州で発生した情感豊かで雅な室内楽。「絃管」、「南曲」、「南樂」、「郎君唱」、「郎君樂」などの別称がある。この音楽を用いた優美な文語調の劇が「南管布袋戲」。主として文戲が好まれて演じられていた。
「白字布袋戲」は「南管布袋戲」と類似しているが、台詞などがより俗っぽくなったもの。
「潮調布袋戲」は廣東潮州地区で流行していた音楽を用いており、「南管布袋戲」とほぼ同時期に発生している。「潮調」は俗に「道調」或いは「師公調」とも呼ばれ、最大の特徴は”一人唱,眾人和”(独唱と唱和?)で、独唱の最後を全員で歌い上げるというもの(らしい)。こちらも文戲がメインで演じられた。「潮調好暝尾」と評され、潮調は夜が深まった時に相応しい音楽と言われている。
図1 南管・潮調・北管の分布図 (国立台南芸術大学資料参照)
その他にも「外江布袋戲」や「歌仔調布袋戲」というものもある。「外江布袋戲」は北管布袋戲に京劇の太鼓(鑼鼓)を取り入れたものだが、伝播地域は限定的。又、「歌仔調布袋戲」は歌仔調の曲を取り入れたもの。台湾南・中部で広まり、女性の歌(歌仔調)が人気を呼んだ。
伝統的な潮調と南管布袋戲に用いる楽曲は文人に多く好まれた。後世、文人が減少していき、更に南管の演奏者が減少、延いては南管が衰退していく中、これらの布袋戲も減少していくことになる。まさにそのような時期に北管布袋戲が一躍表舞台に躍り出た。民衆の嗜好が優雅な文人向けの劇から力強い武侠劇へ偏向していった結果である。こうして南管・潮調の伝統布袋戲(古典籠底戲と呼ばれる)から北管音楽の「北管布袋戲」へと移行していった。丁度日本統治時代が始まった頃である。
布袋戲の禁令と規制、そして進化
歴史上、布袋戲の上演が政治の影響で禁止または大きく制限された事が何回かある。この禁令がある意味において台湾布袋戲の発展と密接に関連している。1930年代には日本統治下で布袋戲などの民間戯曲活動が禁止されてしまう。皇民化を目的として1941年にようやく一部解禁されるが、あくまで皇民化が目的なので、戲偶の造型や音楽が日本化され、上演されたのも水戸黄門、鞍馬天狗、黒頭巾などの日式布袋戲だ。台詞は台湾語と日本語の併用となっている。日本が敗戦し撤退した後は当然ながら皇民化布袋戲は消滅した。しかし、この時代に用いられた演出や音楽、舞台背景、衣装や手法などは今後の変遷への布石となっていく。
日本統治の終焉後、これまで抑圧されていた文化が再び活性化するが、1947年の二二八事件以後、再び禁止の憂き目にあう。「外台戲」(廟などで行われる祭典)の禁止である。其の反面、1950年代には積極的に反共抗俄(ソ)の政治劇が展開された。政治宣伝的な布袋戲(反共抗俄布袋戲)である。そして「外台戲」が何度も禁止された事で、布袋戲の流れは「内台戲」(戲院で行われる公演)へと移り変わっていった。
写真1 戲院のモックアップ
高雄市立歴史博物館『掌中乾坤-高雄布袋戲春秋特別展』の展示
台湾の街(確か台南)で通りがかった廟。祝祭準備中の様子だった。
- 1937年
- 第一次禁令。日本統治下で発布。日本政府は「禁鼓楽」政策をとる。台湾布袋戲にとっての暗黒時代となる。1941年には布袋戲解禁の要望が出されて、日本の政策に沿うような制限された形でようやく一部解禁される。(皇民化布袋戲)
- 1947年
- 第二次禁令。「二二八事件」発生。国民党政府は一年間廟などで行われる布袋戲、所謂「外台戲」を禁止。ただし戲院で行われる「内台戲」は禁止されなかった。
- 1949年
- 国民党政府遷台。「外台戲」禁止令。
- 1952年
- 政府は拝礼などを厳しく規制。再度「外台戲」の禁令が出される。
- 1974年
- 第三次禁令。布袋戲が青少年に悪影響を及ぼし国民の生活を乱しているとして一時期台湾語の布袋戲上演を制限。
金光布袋戲の台頭
当初は「北管布袋戲」のような伝統布袋戲のみ存在していたが、1950~60年代、「外台戲(廟などで行われる祭典)」から「内台戲(戲院で行われる公演)」へとその主流が移り変わる時期に『金光(剛)布袋戲』と呼ばれる形式が現れた。「異化」現象とも言われ、布袋戲の慣性的な『一人口白、雙手撐偶、木頭雕刻(台詞は一人、両手で操偶、木雕頭部)』という基本を維持してはいるが、それまでの伝統布袋戲と比べ演出・木偶・音楽・舞台などの芸能的要素が大幅に「拡張」されたものとなっている。「金光布袋戲」は流行や娯楽性を重視し観客の興味を引くことに重点を置き、演出が大きく変わった商業的な布袋戲として観客の目を惹くようになった。伝統布袋戲との一番の違いは、音源としてカセットテープの使用や専任の脚本家による脚本、45cmほどに大型化した木偶などである。 この時期の代表人物としては五州園の第二代、黃俊雄(金光布袋戲とはで後述)と、新興閣の第五代、鍾任壁の二人が挙げられる。
吳明德著『台灣布袋戲表演藝術之美』によれば、台湾の布袋戲の100年来の発展は「金光化」という一本の道を突き進んでいるということだ。すなわち、布袋戲の変遷は「以前のものからの更なる金光化」と表現できることになる。因みにこの呼び名、もともとは「金剛」であったようだが、台湾語で「光」と「剛」が同音であったこともあり「金光」が定着したそうだ。
電視布袋戲(テレビ布袋戲)とその受難
1961年、台湾のテレビ時代が到来すると、『電視布袋戲』が形成される。1970年に黄俊雄の『雲州大儒侠史艶文』が放映され大ヒット。当時「黄俊雄」の三文字が台湾布袋戲の代名詞と言われるまでなった。木偶の大きさもさらに大型化し、90cm程度の大きさになる(現在の大型木偶である)。舞台や演出もテレビ独自の技術を取り入れた新しい形態として発展していく。
この大ヒット当時、いわゆる布袋戲劇団の「おっかけ」や「雲州大儒侠史艶文」を見る為に放映時間には皆テレビの前に釘付けになり、井戸端話は全て史艶文というほど。寝食を忘れて熱中するというような社会現象まで起きたということである。学生が学校を休むなどの社会問題も発生。「妨害農工正常作息」とされ、又当時政府が進めていた「国語運動」の重大な阻害になるとして1974年に一時期放映禁止となった。(「史艶文」は台語を使用していた。)
禁令後、黄俊雄師は国語布袋戲を世に出すが、国語では以前のような大衆の共感を得ることはなかった。台語という布袋戲の一つの真髄なくしては台湾国民に受け入れられなかったということだろう。その後、黃俊雄は「六合三俠傳」を世に出すが、以前の熱狂は得られなかった。
写真3 史艶文と秦假仙の垂れ幕
高雄市立歴史博物館『掌中乾坤-高雄布袋戲春秋特別展』入口
布袋戲新時代:史艶文から霹靂へ
1982年には大衆の強い要望を受けて電視布袋戲は徐々に復活を遂げる。黃文擇・黃強華兄弟は彼らの父親である黄俊雄の作った雲洲大儒俠シリーズの後をうけて『霹靂布袋戲』を世に出す。しかし放映の時間帯、放映時間の短さ(正味20分程度)や内容など未だ当局の検閲が厳しく真髄を発揮することが困難で徐々に大衆の興味を失っていった。1985年、黃文擇師はそのようなテレビ放映の状況に見切りをつけ、自身で布袋戲を撮影しレンタルビデオ市場に参入する。布袋戲新時代の幕開けである。
80年代後半に黃兄弟は「霹靂衛星電視台」というケーブルテレビの専用チャンネルを設立。
黄氏は解禁後に出された「霹靂」シリーズを編集し、新たに五部にまとめて市場調査もかねて世に出した。それらが「霹靂城」、「霹靂神兵」、「霹靂金榜」、「霹靂震九霄」の五集。
写真4 霹靂チャンネルの一場面
霹靂チャンネルを視聴できるホテルと出来ないホテルがある。(えてして高級ホテルでは視聴できない)
写真5 2008年傳藝夏之祭
國立傳統藝術中心で2008年8月に開催された布袋戲展示会。史艷文と素還真が一緒にパネルになっている。
このような現代版布袋戲には、霹靂シリーズのほかに、『火爆球王 10集』(2000/11/08 国語版)、『天子傳奇 36集』(2001/12/08 香港漫画家の黄玉朗と共同。封髪榜演義を主軸)、『黒河戦記 30集』(1995 初めて映画撮影方式を採用)、等が存在するが、何れも霹靂ほどの人気を得ることはかなわなかった。
『台灣小百科・民俗館: 台灣布袋戲』 稲田出版
『台灣布袋戲表演藝術之美』 吳明德 著 台灣學生書局